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リリ
目覚めの案内人
純粋な非二元(悟り)の観点から心のセラピストとして活動しているリリです。
幼い頃から、この世界への諸行無常感を抱え、極度に繊細で敏感(HSP)な自分に生き辛さを感じいました。20代の時に訪れた絶望を機に悟りの探求を始め、一瞥・覚醒を数度体験。
セッションでは表面的な改善でその時だけの状況を変えていくのではなく、より本質的かつ根本的な改善方法に導くことを心がけています。

繊細すぎて生きづらかった私が行き着いたのは「悟り」でした

浜辺で海を眺める少女

こんにちは。リリです。

今回は記事タイトルの通り、繊細で生きづらかった私の実体験をシェアさせてください。

最近は、社会でも繊細さを持ち合わせた人にフォーカスが当たり始めています。繊細さは、その程度の差はあれど、誰しもが持ち合わせている要素だと思います。どんなに見た目が屈強な人でも、実は繊細な部分が必ずあるものです。

ただ、そんな中、目に見えて繊細な人も存在します。繊細すぎる人と表現することもできるでしょう。私自身がまさに、そのうちの1人でした。

当時の私にとって、人生とは不安そのものであり、生きることは辛いこと。という方程式が自分の中で無意識化に構築されていたように思います。一刻も早く自分の本質、生きる意味の本質を見出さなければ、苦しみと虚しさでもぬけの殻…と、そんな状態だったのです。あらゆる宗教や哲学を包含した悟りの教えに出会い、それを実践するまでは、ずっとそんな状態でした。

よって今回は同じような悩み・苦しみを抱えている人に向けて、私の苦悩に満ちたその旅路と、自分の人生を大きく変えることになったそのきっかけについて、お話します。

まず初めに、自分の繊細さを隠して生きるのが苦しかった時代のお話を。

そして次に、苦しみの末、悟りに行き着いたお話と、なぜ、悟りだったのか?その詳細についてをお話します。今回の内容で、「どれだけ繊細な魂として生まれてきたとしても、幸せに人生を歩んでいくことができる」ということをシェアできればと思います。

それでは、早速いきましょう。

目次

繊細すぎて生きるのが苦しかった時代(10代〜20代)

悩む女性

まだ繊細な人(HSP)という概念がそこまで浸透していなかった10数年前、私は子どもながらに「繊細な人=頑張れない弱い人」という認識でいました。もともと明るい性格で元気もあったので、「自分が繊細である」という自覚もなく、そんな自分の面から目を背けていた部分もあります。

ですが、内心は傷つきやすく、臆病で、いつも人間や人生の本質について考えるような、繊細で哲学的な子どもでした。加えて、サイコパスな友人との関係に苦しんでいたこともあって、非常に幼い頃(3歳〜5歳)から、ぼんやりと生きづらさを感じていたのを覚えています。

人生の本質に関しての問いかけについては答えの出ないまま、そして自分の繊細さも否定したまま、私は成長していきました。

そんな中、はっきりと生き辛さを認識するようになったのは、中学生〜高校生くらいの時です。この時期は、思春期だったのもあって、外界の刺激の強さに耐えられない自分や内面の繊細性に対しての自己否定や自己嫌悪がひどく、生き辛さゆえにいつもぐったり疲れていたように思います。

当時の私は、賑やかなバラエティ番組などを見るのも苦痛でした。よってテレビで見るのはEテレの静かな番組(絵本アニメや世界街歩きなど)など。そんな自分に対して、「どうして自分はこんなにも繊細で生きづらいのか?」と絶望して、学校も休みがちに。

でも、この時はまだ「繊細な人=頑張れない弱い人」という認識が強かったので、本心では周りからの目や刺激に怯えながらも、そんな自分を必死で隠して、明るく元気で強いふりをしていたと思います。中学校の時に体験したいじめもあって、「私は頑張り屋で明るく元気で良い子にしていないと皆に嫌われる。」という思い込みもありました。

その結果、ありのままの自分を見せることができる相手は殆どおらず、深い孤独感の中で青春を終えたように思います。

そして、そんな苦しい期間は、23歳まで続きました。当時の私にとって、人生は灰色がかっており、自分に自信がなく「私なんて」が口癖の超悲観主義のネガティブ人間でした。

あまりの生き辛さに「このまま生き続けるより、死んだ方がよっぽど楽かもしれない。」と、本気でそんな風に考えることも。

繊細すぎた私が行き着いたのは「悟り」だった

蓮
当時の私は、自己否定と自己嫌悪の塊で、あまりにも闇・負の要素にまみれていて、「生き方を変えるか、人生を諦めるか」そんなところまで来ていたように思います。まるで自分の中に強烈ないじめっ子が住み着いていて、四六時中自分をいじめているような、そんな感覚でした。

当時の人間関係もまた、そんな自身の内面を反映したような、悲惨なものでした。幼少期に出会った人とは別のサイコパスな人と出会ったことによって、私の人生はさらに深い、絶望の中へと入っていったのです。(今思えば、サイコパスな人との体験はすべて、私にとって恩寵でしたがこの記事では省きます。)

そんな中、23歳の時に「闇極まって、光となる」と言えるような出来事が起こります。

それは、「悟りの教え」との出会いでした。それまでの私は、スピリチュアルに偏見的な思想を持っていたので、悟りの教えに触れることも殆どありませんでしたが、この時の私は辛かったのもあって、偏見を捨てて読んでみよう。とそう思ったのです。

今振り返ってみれば、その最初の本が悟りの本だったのは、とても幸運であり、必然だったようにも思います。悟りの教えは、私が長年抱いてきた人生の本質についての疑問、「人は何故、死ぬのに生まれるのか?」「人生の意味とは何か?」に対して、非常に明確かつ納得のいく説明をしていました。

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また、「この世界の本質は無条件の愛である。」ということを、一切のエゴのない文章で説明してくれていました。

悟りの教えは、あらゆる宗教や哲学や心理学を全て包含し超越していました。当時、20代前半だった私は、そんな深い教えに、雷に打たれたような衝撃と、救われる感覚を覚えました。そして、私が幼い頃から尊敬していたガンジーやマザーテレサなども、それぞれ宗教は違えど、同じゴール(悟り)を見ていたとわかりました。

それまでは一切、本を読んでこなかった私でしたが、悟りの教えに出会ってからは、夢中になって読み漁りました。おそらく、悟りに関連する本を数ヶ月のうちに100冊近い本を読んだと思います。

ただ、悟りを学べば学ぶほど、深い部分で救われるのに加えて、自分のエゴを見つめさせられる事にもなりました。その結果、「人は鏡である。」ということの本質や、「無条件の愛がすべてである。」ということ、そして「真の赦しによって人は自由になる」ということなど、あらゆることを学びました。

そして、そんな学びを実践すればするほど、自分をいじめるエゴの声は薄れていき、その結果、生きづらさもどんどん薄くなっていったように思います。

なぜ悟りだったのか?

ただ、「何故、よりによって悟りなのか?」そう疑問に思う方もいるかもしれません。
世の中には心理学の本や、繊細な人に向けた本など、もっと馴染みやすい本が沢山存在しますし、そうした本の方が直接的に悩みに対応できるように思えることもあるかもしれません。

ですが、私の強度の繊細性による生きづらさ、苦しみの深さは、悟り以外の教えでは、癒えるものではありませんでした。

というのも、サイコパスな人たちから受けた苦しみ・トラウマの解決策や、私が幼い頃から抱え続けてきた疑問、人生の本質・人間の本質についてをストレートかつ明確に教えてくれるのは、繊細な人に向けた本でも、心理学でもなく、「悟り」だったからです。

上記の疑問は、どんな難しい哲学本を読んでも、心理学の本を読んでも、解決されなかった根深いものでした。私のこの本質に対する問いかけは、ほとんどの大人が見出していない答えだったのです。

それもそのはず、真の赦しや、人間の本質や人生の本質は、どんなに優れた知性でもたどり着くことのできない、知性の外側(知性を超えた境地)に見出されるものだからです。

ですが、悟りの教えはそんな知性を遥かに超えた「叡智」を、一切の洗脳っけやエゴの無い視点から、力強く語っていました。

だからこそ、私は悟りの教え以外では、ここまで変わることも、癒されることもなかった。と、そう確信しています。


悟りに触れ、繊細さをあるがままにさらけ出すように

鏡ごしに微笑む女性
悟りの教えは、あらゆる宗教や哲学を超越した「究極の叡智」だと、そう思います。その教えには深い愛が根付いており、私たちの意識を、正しさから平安に導いてくれます。

インドの悟りの聖者、ラマナ・マハルシはよく人々に向けて「あるがままに在りなさい。」と言いました。それは、真の愛は全てをただ受け入れる。という深い叡智が根付いた言葉でした。

私はその言葉に胸打たれ、少しづつ自身のあるがままを許し受け入れるようになりました。

それまではずっと、「私は何故、こんなに繊細で生きづらい性質を持って、生まれてきたのだろう?」と自分のあるがままを恥じて、責めて生きていましたが、そんな生き方をやめて、自分が非常に繊細であることを直視し、認め、許していったのです。

その結果、少しづつ、あるがままの自分を愛し、理解してくれる人が集まっていきました。彼らとの交流は、魂レベルでの交流だと感じます。そんな人たちに出会えたことは、本当にありがたいことです。

だからこそ、私は今、「自分はあるがままの自分で愛に値する。私は(繊細すぎる)私でよかった。」と、心からそう思います。

そして、そう思える自分になれたのは、「悟りの教え」と出会ったからです。

終わりに

以上、今回は「繊細すぎて生きづらかった私が行き着いたのは「悟り」だった。」ということをテーマに、色々なお話をさせていただきました。

いかがだったでしょうか?

「人生の本質とは何か?人間の本質は何か?」という究極的な疑問は、生きづらさを抱えている人の大半がぼんやりと抱えているものだと思います。繊細である人は特に、あらゆることに敏感に気がつきやすいため、無意味だと感じることに耐えられず、人生に深さを求めることも多いです。そんな中、いずれぶつかっていくのが上記の疑問なのでは無いかと思います。

多くの聡明な心理学者(ユングやラム・ダスなど)も、心理学を追求した末にこの疑問にぶつかり、結局は悟りに行き着きました。(世界的に有名なユングはインドの悟りの聖者ラマナ・マハルシを敬愛し、ハーバード大学の心理学教授だったラム・ダスはインドの悟りの聖者ニーム・カロリ・ババを敬愛しています。)

結局、そうした本質部分を見出さない限り、私たちの根源的な生きづらさは終わることがないのかもしれません。ですが、自身の本質を知った際には、愛の素晴らしさを知り、この地上が天国になることでしょう。

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ということで、今日はこの辺で。最後まで読んでくださってありがとうございました。

愛を込めて。

リリ

浜辺で海を眺める少女

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