こんにちは。リリです。
今日は「無条件の愛」について。
スピリチュアルな世界ではよく、”無条件の愛”というワードが登場します。
ただ、無条件の愛とは何なのか、そこに疑問を抱く人も少なくありません。
「無条件の愛とは何でしょうか?」「愛がよくわかりません。本当の愛ってなんでしょうか?」
上記の質問は、実際、私がセッションや講座を行なっていく中でも、多く受けてきた内容になります。
目覚めの時代と呼ばれる今、あらゆる人々が無条件の愛に憧れ、魅了されているのだと思います。
ただ、そんな愛がわからないが故に、負い目を感じたり、苦しむ人もまた、多く存在していることに気づきました。
中には、「無条件の愛が怖い」「無条件の愛なんて嘘だ。」そんな風に思っている方も一定数いらっしゃいます。
よって今回は無条件の愛とは何なのか、ということに関して、この1記事で全てが理解できるように、徹底的に解説していこうと思います。
・無条件の愛が示す意味
・無条件の愛の実践の具体例
・イエス・キリストが解いた無条件の愛の真意
・スピリチュアル的な視点での無条件の愛
・無条件の愛が怖い場合、どうしたらいいのか
・無条件の愛を描いた映画をご紹介
・無条件の愛を描いた書籍をご紹介
無条件の愛が示す意味とは?
無条件の愛とは、その言葉の通り、条件付けのない愛のことを指します。
善も悪も間違いも正しいも光も闇も全て受け入れて、あるがままに許している愛のことを無条件の愛と呼びます。
よって、この無条件の愛は誰かを裁いたり批判することがありません。無論、差別や偏見とは無縁の愛です。
あらゆる人に対して、惜しみなく与えられる愛のことを指しています。
よって、無条件の愛は恋人に限らず、自分自身、親、子ども、兄弟姉妹、友人、など全ての関係に同じように注がれるものです。
では、自分に対して注がれる無条件の愛と、自分以外の他者に向けて注がれる無条件の愛とは、具体的にどんなものなのでしょうか。
実際に具体例を挙げてご紹介します。
自分に対する無条件の愛の具体例
自分に対して向けられる無条件の愛の具体的な一例として以下の内容が挙げられます。
・もし例え、嘘をついてしまったり、人に八つ当たりしてしまったりなど、その時、自分の望む自分でいない時でも、そんな自分を「ダメなやつだ」と否定することなく、あるがままに許して受け入れる。
・何かと闘うのをやめ、自ら進んでネガティブなものに注目することをやめる。
・無理に自分を好きになる必要はないと気づき、自分を好きになれない自分を許すことが愛だと気づく。
・自分を本当に幸せにできるのは自分自身しかいないと気づき、忘れない。
・自分を犠牲にせずに自分の幸せに真剣になる。
自分以外の他者に対する無条件の愛の具体例
では次に、自分以外の他者に対して向けられる無条件の愛の具体例の一部を挙げます。
・たとえ、他の人たちが怠け者、嘘つき、ネガティブな性格、癇癪持ちなど、自分が望む姿ではなくても、それを裁くことなく、その人の個性として、あるがままに受け入れる。
・他の人の中に孤独や恐れや不安感など、人間の弱さを見たとしても、そんな不完全さを、思いやりを持って、あるがままに受け入れて許す。
・最も憎い相手こそが無条件の愛を教えてくれる存在であると気づき、怒りを感じる自分を許し、その感情を感じぬくことで相手を許す
・一切の見返りを求めずに相手にアドバイスやガイドを与える。
・自分が誰かを幸せにできると考えない。本当に幸せにできるのは自分自身だけであるということを忘れない。
以上、自分や他者に対して向けられる無条件の愛の一部を、ご紹介させていただきました。
多くの人は、他の人のことよりも自分のことを考えることをエゴイズムとみなしますが、本来は逆です。
まず自分の幸福を大切にした上で相手にも自然に広がる愛が、本来の無条件の愛です。
エゴ的愛とは、「相手が自分を幸福にすべき」と考えることです。
よって、まずは自分の幸福の実現にしっかりと責任をもつことから、愛の実践が始まっていきます。
ただ、カウンセラーなど、心理を専門とした人の中でも、無条件の愛を理解している人は少ないです。
それほど、無条件の愛を理解することは、簡単ではありません。
イエス・キリストの無条件の愛の教えの真意とは
キリスト教の教えの中で「右頬を打たれたなら、左頬も差し出しなさい。」というイエス・キリストの言葉があります。
この言葉は、新約聖書の『マタイによる福音書』第5章に登場する、聖書の中でも特に有名な言葉で、イエス・キリストが無条件の愛を人々に説く上で用いました。
あるカウンセラーさんとこの言葉の意味について話していた時に、彼はこの言葉について以下のように解釈しました。
「そもそも、右頬を打たれる行動を起こすこと自体、間違っている。そもそも悪さするなって話なんだよ。簡単なことだよ。」
そういった意見も理解できます。ただ、私はこの時、全く違う見解を持っていました。
そんな風に、正しくいようとすることは簡単です。ですが、時に正しさだけではやっていけないのがこの世界です。結局、100%正しくいるというのは、机上の空論なのです。
だからこそ、もし誰かが、正しさよりも怒りや悲しみに翻弄され、あなたの右頬をぶったとしても。
それでも、そんな頬を叩いてきた相手に対して、世界の正しさを押し付けるのではなく、あるがままに受け入れて、「そんなことは愛の前では、大したことではない。」と捉えて、左頬も差し出してしまえばいい。
これこそが無条件の愛だと、イエスは教えてくれたのだと、私は思います。
ただ、ここで誤解して欲しくないのは、自己犠牲で全てを受け入れることが無条件の愛ではないということです。
無条件の愛の実践というのは、まず、自分の目の前にあるあるがままの状況を受け入れた上で、その後、自分が起こしたい次のアクションを起こすことを指します。
ですから、「右頬をぶたれた」という状況を完全に受け入れた上で、次のアクションが、相手をただ抱きしめるということになるかもしれませんし、「痛いよ。やめてほしい。」と伝えた上で、その場から立ち去る、というアクションを起こすこともあるでしょう。
何が正解とかはありませんが、大切なのは、その場で起きた状況をまず100%受け入れる、ということです。
ラマナ・マハルシが証明したイエスの教え
そんなイエスの教えである「右頬を打たれたなら、左頬も差し出しなさい。」を、まさに体現した悟り人が、インドの山奥にいました。
今世紀最大の覚者として、死してもなお、語り継がれているラマナ・マハルシという聖者です。
ラマナの以下のエピソードは、まさにイエスの言葉と類似しています。
一九二四年、シュリー・バガヴァーンがすでに現在の山麓のアーシュラムに暮らしはじめていたころ、数人の泥棒が彼の母親のサマーディ(聖者の墓碑)を納めた小屋に押し入った。
<一部省略>
強盗たちは扉のところで棒を持って立ち、不具にするか無抵抗にさせようと、彼らが出てきたところで叩きつけた。シュリー・バガヴァーンは左大腿部を打たれて言った。「それで満足しないなら、もう一方も打つがいい」。
<一部省略>
「でも、スワミは大丈夫なのですか?」、ラーマクリシュナ・スワミが尋ねた。シュリー・バガヴァーンは笑うと、タミル語で「礼拝」と「殴打」の語呂を合わせて、「私も礼拝を受けたよ」と答えた。
ーラマナ・マハルシの伝記 アーサー・オズボーンより引用
シュリー・バガヴァーンとは、ラマナ・マハルシのことであり、彼は、泥棒が自分の住まいに入ってきた事実をあるがままに受け入れました。
そして、彼らの精神的状況も受け入れたその上で相手をジャッジすることなく、「そんなことは大したことはない」と言わんばかりの余裕で、相手に対して勇敢に対応したのです。
結局、数日後、盗まれたもののうちいくつかは回収され、強盗は逮捕されて監獄へと送られ、全てが完璧に解決したそうです。
スピリチュアル的な視点での無条件の愛
無条件の愛の体現は、スピリチュアル的な視点で見たら、魂のゴール地点への到達です。
無条件の愛の体験は言い換えれば「悟りの体現」「悟りを開く」と表現することもできます。
「魂のゴール地点」と呼ばれるだけあって、無条件の愛の体現は、「言うは易し、行うは難し」の代表例です。
無条件の愛の実践は単純だけれど、決して簡単ではありません。
私自身、そのことを自分自身の人生や仕事を通して、嫌という程、痛感してきました。
自分の人生に、望ましくない状況や不愉快な状況がもたらされた時、その全てをあるがままに受け入れることはそう容易くはありません。
また、この世界には「善・悪」「正・誤」によるジャッジがあふれています。
民族や文化、肌の色、職業や年齢、宗教の違い、価値観の違い、信念の違い、目標の違いなど全てをあるがままに受け入れて許すことは、予想以上に難しいものです。
ただ、だからと言って不可能かといえば、全くそうではなく。
無条件の愛を実践して、そのあり方を定着させていくことは、十分に可能です。
そのために大切なのは、以下のプロセスです。
- 自分が日々、世界や自分をジャッジする”元”となっている信念に気づく。
例:不倫は絶対悪だ。努力しないことは悪だ。
嘘をつくことは絶対悪だ。スピリチュアルの殆どはインチキだ。等 - 自分の信念に気づいたら、無理にそれを変えようとしたり、否定したりするのではなく、あるがままに受け入れて、その信念によって感情が荒れる自分に気づいている
- その信念によって、深い部分で自分が自分をジャッジしていることに気づく
- そんな自分が受け入れ難くてもまた、許して受け入れる
→それができなかったのは、自分の中に何かそれに関する悲しみがあったからだと気づいて自分に慈悲を与えてあげる - 気がつけば、信念が取り払われ、自分や他者を許し、無条件の愛を体現できるようになっている。
このプロセスが1つ1つの信念に対して実践されていった結果、あなたは、自分の心が驚くほどに癒されていき、あるがままに無条件の愛の中で生きていく事ができるようになることを実感するでしょう。
無条件の愛が怖い場合
ただ、中には、「無条件の愛が怖い」と感じる方もいます。
その恐怖は決して悪いものではなく、ある意味でしょうがないものです。
というのも、暗闇にずっといた人が、いきなり強い光を見てしまうと眩しくて目が開けられなかったり、目がダメになってしまうこともあるように、強く深い愛というのは、愛を知らない人たちにとっては、時に恐怖の対象になることがあるからです。
イエス・キリストに起きた出来事が非常にわかりやすい例です。
彼は悟りを開き、世界の真理が無条件の愛であることを理解したが故に、あらゆる奇跡を起こしました。
そしてあらゆる場所で、その真理を説いたわけですが、最終的に彼は磔にされました。
ではなぜ、真理を説いたイエスが磔にされたのかといえば、そこにもやはり、深い恐怖が関わっていました。
と言うのも、真理を理解できない人にとって、この無条件の愛という最も深い愛は、自分の理解を超えた恐怖の対象でしかなかったからです。
その結果、排除するべきと考え、磔にすることを決めました。
ですが、大きな視点から見れば、その行動もまた、悪ではありません。
イエスを磔にした彼らもまた、愛を知らないが故に苦しみや恐れを抱えた、悩める人たちであったに過ぎないのですから。
愛がわからないという人の多くは、幼少期、親から無条件の愛を注がれて育った記憶がありません。
愛を教わっていないのであれば、愛がわからないのも当然です。
その結果、「愛が眩しすぎる。愛が怖い」と闇に走って自暴自棄になってしまうこともあります。
そんな時、愛が怖い人に大切なのは、そんな自分もまた、あるがままに許してあげることです。
愛がわからない自分を許すのもまた、愛の実践です。
私自身、愛が怖い人に対して、無理に愛を説こうだったり、教えようとは思いません。
まずはそんな、自分の愛の欠如部分、苦しみに寄り添うことが大切です。
そして、徐々に、自分自身のペースで、愛に心を開いていけばいいのです。
もしたとえ、50年かかったとしても、何も問題ありません。大切なのは本人の意思とペースの尊重です。
真の愛は、強制されることも、押し付けられることも一切ない愛です。
無条件の愛を描いた映画
無条件の愛を学べる映画として、「アメイジング・ジャーニー」が挙げられます。
実は、この映画を知ったのは最近で、あるクライアントさんからオススメされたのがきっかけでした。
内容は「幼少期、父から虐待を受けいていた主人公が大人になって、娘が誘拐殺害され苦しむが、数名の神様と出会い、その神様達との交流の中で、父や、犯人を許す旅に出る」という、まさに無条件の愛を学ぶためのストーリーとなっています。
内容は決して軽いものではありませんが、本当に深い内容で、映像を通して「無条件の愛=悟り」を学ぶ事ができる非常にスピリチュアルな映画です。
無条件の愛を描いた書籍
無条件の愛を学べる書籍として私がオススメするのは、「サラとソロモン」です。
喋る賢者フクロウのソロモンが、主人公の少女サラに人生で大切なことを教えていく物語調のスピリチュアル本です。
著者は、引き寄せの法則で有名なヒックス夫妻なので、基本的にソロモンの教えは引き寄せの法則的です。
ですが、物語が終盤にいくにつれて、ソロモンは、自分の在り方を通して「無条件の愛とは何か」をサラに教えていきます。
終盤は涙なしでは読めないような、そんな感動の内容となっていて、私自身、何度も泣きました。
物語調なので読みやすいですし、読んだ後、とても愛で満たされる内容なので、ぜひ興味のある方は読んでみてください^^
終わりに
以上、今回は「無条件の愛とは」ということに関して、1から全て、お話させていただきました。
いかがだったでしょうか?
今回の内容をまとめます。
- 善も悪も間違いも正しいも光も闇も全て受け入れた愛=無条件の愛
- 無条件の愛には何かを裁いたりなどのジャッジがない
- 無条件の愛が向けられる対象は自分自身と他者どちらも当てはまる
- イエスの解いた愛は、正しさを追求するのではなく、全てを受け入れる愛
- スピリチュアル的に言えば無条件の愛の体現は魂のゴール
- 無条件の愛の体現は容易ではないが必ず可能なこと
- 無条件の愛が怖い場合、そんな自分を許してあげることから愛の実践が始まる
- 無条件の愛を学べる映画「アメイジングジャーニー」
- 無条件の愛を学べる書籍「サラとソロモン」
無条件の愛は、思考ではなく、ハートで感じるものです。
よって、必要なのは自分から世界の全てにハートを開いて、その全てをジャッジすることなくあるがままに受け入れること…。
それだけです。そのために出来ることは、まず、自分自身を裁くことをやめることです。
悟りの聖者の多くは言いました。
「あるがままに生きなさい。」
本当にこの一言に尽きます。この一言に真理が詰まっています。
あなたが無条件の愛に生きる時、あなたはあるがままになり、非常にパワフルな存在へと変容します。
かつ、調和がとれ、驚くほどに幸せな現実を本当の自分として生きるようになるのです。
そんな無条件の愛があなたの中から溢れていくことを、心より応援しています。
PS.
無条件の愛を知る”ツール”として、「オラクルカードリーディング」が挙げられます。
神託カード呼ばれるオラクルカードで、ハイヤーセルフ(無条件の愛の存在)と繋がり、その時のあなたに必要なメッセージを受け取る方法です。
カードリーディングでは、あなたのハイヤーセルフが無条件の愛の視点から、仕事や恋愛、経済面など、あらゆるジャンルの質問に答えてくれます。
あなたの人生に、ハイヤーセルフが慈悲の視点で寄り添いながら、その上で適切なガイダンスを行なってくれるのが、このオラクルカードリーディングです。
こうしたツールを使って、無条件の愛を感じるのも1つ、素晴らしい方法です^^
ちなみに、私が行なっているノンデュアリティセッションでも、オラクルカードのカードリーディングを行なっていますので、興味のある方はぜひ、こちらからご確認ください^^
実際に受けてくださるクライアントさんも、ハイヤーセルフのそのガイダンスの的確さに、いつも驚かれています^^
それでは、愛を込めて。
リリ