こんにちは。
リリです。
ブッダは悟りを開いたということで有名な人物ですが、今、この地球は目覚めの時代と言われており、そんな悟りを開く人が急増していると言われています。
ただ、この「悟りを開く」という言葉の意味を正確に知っている人は少ないように感じます。
時には解釈が誤解されていることも。
よって今回は、非二元的(悟り)セラピストの私が、悟りを開くという言葉が一体どういうことなのか、できるだけ簡単にわかりやすくお話していこうと思います。
それでは早速いきましょう。
悟りを開くってどういうこと?その意味とは
悟りを開くという事は、とても簡単に言ってしまえば個人的行為者の感覚の終焉を指します。
個人的行為者というのは、「私はリリである。」というように人間が生まれてすぐに持ち始める自我・エゴのことです。
通常は「私リリが、ご飯を食べる。」といったように、個人としての自分が、何か行為を起こす。という風に考えますよね。
ですが、悟りを開くと、人間は分離した実体のある存在ではなく、全てが1つ…つまりはワンネス(=真理は誰1人分離した個人はおらず、全ては1つであり、それこそが実在であるということ。)であると気づきます。
そして、ワンネスとして機能する、神の道具であるという深い理解が確信を持って見出された時、その人は悟りを見出した存在といえるのです。
分離した存在である行為者としての自我の自分→行為者(自我)という感覚の不在
この意識のシフトこそが、悟った人たちに起こる変化です。
もっと具体的にいえば、悟りを開くと、以下のような理解が自らの内側から見出されます。
- 真の私は個人としての存在でもない。存在の不在でもない。
- 真の私は身体でもなく、5つの感覚器官でもない。
- 感覚の対象でもなく、行動でもなく、生気でもなく心でもなく、深い眠りの状態でもない。
→それら全てが概念だと気付いた時に最後に1つだけ残るもの…純粋な気づきそのものとなること - ”気づき”に気づいているもの。この純粋な気づきである。
- 宇宙という分離世界は全て幻想であり、全てが合一で神であると気づくこと。
悟りを開くと、自分が人生という劇の演者でしかない事を確信する
悟りを開いた”人”の心境は、演劇の演者で例えるとわかりやすいです。
演劇のストーリーは、脚本家によって創造される架空のストーリーですよね。それは現実じゃない。
現実は、映画館の外に出た時にある…普通は皆、当たり前にそう考えると思います。
ただ、悟った人(正確にはそこにはもう人という概念もないのだけど)は、本当はその映画館を出た自分さえも”人生という劇の演者である”ということに気づいています。
現実の人生もまさに幻想、映画だと。
これは自分が実際に演者だと考えてみるとわかりやすいと思います。
通常、役を演じるのを終えたら、自分をその役の本人だとは思わず、素の自分に戻りますよね。
悟った人の感覚もそれと同じです。
というのも、多くの人は自分が人生の演者そのものだと信じ、その演者と肉体の寿命が尽きるまで一体化していますが、悟りの聖者は、個人としての自分さえも演者に過ぎず、本当は分離のない実在だと気づいているのです。
悟りを見出すと、肉体がある期間は、演者としての自分を演じるけれど”本来の自分”は神そのものワンネスであるという確信的自覚が芽生えます。
悟りを開くって仏教用語?
仏教ではブッダが悟りを開いた人物として最も有名ですね。
一般的に「悟り」という言葉自体、仏教用語として認識されているように感じます。
ただ、悟りは仏教だけではなく全ての宗教の目指すところ、また宗教を超えた叡智です。
実は、ブッダだけでなく、イエスキリストもクリシュナも孔子もシェイクスピアもルーミーも…彼らは全て悟りを開いた人物です。
ただ表現や切り口の違いが宗教や教えの違いとなりました。
実際、宗教の教えは異なるように感じますが、それぞれの人物にフォーカスをあてると全ての教えの真髄は共通していることがわかります。
イエス・キリスト(キリスト教)「自我は実在してない。唯一実在するのは神の王国のみだ。私はアブラハム以前に存在していた。私は在る。(ー奇跡講座より引用)」
ブッダ(仏教)「出来事は起こり、行為はなされるが、そこに個々の行為者はいない」(ーラメッシ・バルセカール誰が構うもんか!より引用)
コーラン(イスラム教)「絶対的にすべての知識とパワーが神とともにあり、神は誰を導くか、誰を迷わせるか、正しく指導している」(ーラメッシ・バルセカール誰が構うもんか!より引用)
ギータ(ヒンドゥー教)「行為する者あるいは拒否する者とは誰なのか?行為者という感覚を手放しなさい。その感覚が消え去らないかぎり、あなたは行為に束縛されることになる。」(ーラマナ・マハルシとの対話より引用)
以上の聖者たちの格言は、個々の個人よりは幻想であり、本来は神と一体であり、ワンネスこそが実在である。という真理をそれぞれの角度で説明しているに過ぎません。
時に真理を伝える者のエゴによって、その教えが純粋性を失い、捻じ曲げられることもありました。
宗教戦争などは神を盾にしたエゴ的思想が暴れた結果でしかなく、イエスやそのほかの賢者は決して戦争を起こすような教えは説いていません。
真理をエゴの視点を抜いた視点で真剣に探求していくと、どの賢者の言葉も、自我の私という感覚は幻想である、という真実を指し示していることがわかります。
結局、ほとんどの宗教が目指すゴールが悟りなのです。
悟りを開くには修行が必要?
「じゃあ、悟りを開くには修行が必要か?」といえば、私はイエスでもあるしノーでもあると答えます。
ではまず、なぜイエスなのか、について。
というのも、自我が実在すると考えてしまっている身として悟りを探求するとなると、どうしてもそれまでにプロセスがあるように感じてしまうからです。
では、そのプロセスをどう過ごすかといえば、悟りへの熱情がある限り、悟りに対して何か修行をしたいものだと思うので、そういう意味ではイエスです。
ただ、山にこもって修行であったり、世俗を捨てて修行をする必要があるかと言われればその答えはノーです。
悟りを開くために苦行や無理な修行は必要ありません。
ブッダも無理な苦行をこなった末に、「苦行は逆にエゴを増長させる」という結論に至り、何事もほどほどの中道を説きました。
まず、お釈迦さまは「極端にかたよらずに生きてゆく姿勢が何より大切だ」と教えを説くのです。これは苦行を続ける比丘たちの心を射抜きました。心地よい生活ばかりに溺れて欲張りすぎて、自分を見失ってはいけない。そして、あれもこれも止めて、その欲望をすべて捨て去って、自分をキリキリと追いつめてもいけない。ひとつの極端な生き方に固執して、人間としてのバランスを欠いてはいけないと説いたのです。
引用元:吉祥院コラム
苦行や無理な修行なしに悟りを開いている人は実際に大勢いますので、そういったことを無理に行う必要はありません。
ただ、修行というと、どうしても大変そうなイメージが付きまといますので、”修練”と表現した方がしっくりくるかもしれません。
じゃあ、どういう修練を行えばいいのか?といえばその方法は沢山ありますが、代表的な修練として以下の方法が挙げられます。
- 「私」は誰か?という問いかけを黙想する
- まずは自己愛を育み心の浄化を促す
- 瞑想して思考を鎮める
- 神の名を唱える瞑想を行う(キリスト、シヴァ、クリシュナ好きな神なんでもOK)
- 神にマインドを明け渡して祈りを捧げる
- 悟りの教えを沢山吸収して実践(本などで)
- 実際に悟った人と交流する
それぞれにあった修練法があると思います。
嫌々の義務になってはあまり効果がないように感じますので、実際に色々実践してみて、無理がなく、かつ自分が最もしっくりくる修練を行うのが良いでしょう。
ちなみに私は、日常を日々過ごしながら神の名を心の中でひたすら唱えています。
この修練は、場所・時間を選ばずにいつでも実践できるし、悟りにフォーカスしやすくなるからです。
何にせよ大切なのは、悟り(実在)にフォーカスを当て続けること、です。
まとめ
以上、悟りを開くとは、一体どういうことなのかに関してお話させていただきました。
今回の要点をまとめます。
- 悟りを開くとは分離した存在である行為者としての自我の自分
→行為者という感覚の不在へと意識がシフトすること。 - 悟りを開くと個人の人生が幻想であることに確信を持って気づく
- 悟りを開くというのは仏教用語として有名だが殆どの宗教の目指すゴールである
- 悟りを開くために苦行や無理な修行は必要ない
- 悟りを開くまでのプロセスでの修練方法は複数存在するので、自分にあった修練をして悟りである”実在”にフォーカスを当て続けることが大切
繰り返しにはなりますが、「悟りを開く」というのはあらゆる宗教のゴールです。
なぜそこがゴールか?といえば、先代の悟りを開いた聖者たちの多くが、真の幸福・真の自由は悟りにあると気づいたからであり、このゴールはおそらく数百万年経った後も変わることがないでしょう。
ちなみに私は無宗教ですが、、日常の生活を普通に送りながら、猛烈な探求を行ってきました。
よって、宗教に一切入っていなくとも、また、世俗を捨てなくとも、悟りを真剣に求めることはできます。
なので、「悟りを開く」というと、堅い厳かな別次元の話と捉える人も多いですが決してそんなことはないのですよ^^
全ての人が見出せるものなのです。
ということで、今回の内容が何か、あなたの気づきのきっかけとなれば幸いです。
それでは今日はこの辺で。
愛を込めて。
リリ