悟り

【悟りの境地に達する】その意味と至るまでのプロセス

悟りの境地

こんにちは。リリです。

今日は悟りの境地について。

悟りの境地は英語で表すと「Enligtenment=エンライトメント」ですが、一般的に「悟り」という言葉を聞くと、仏教をイメージする方が多いかもしれません。

ですが、実際には悟りは仏教だけではなく、あらゆる宗教、概念、哲学の全てを超えた究極の境地になります。

そんな悟りの教え・叡智に私が出会ったのは20代前半のこと。

悟りの教えを知った瞬間、自分の中に稲妻が走り、「私が生まれてからずっと求めていたのはこれだ!」と、そう確信しました。

それから何百冊と本を読み、悟りの人と話したりなど猛烈な探求を行いました。

その結果、悟りの一瞥・覚醒を2度、体験しました。

そして、そんな覚醒体験や猛烈な探求の中で色々分かったことがあります。

だから、今回はそんな自身の体験も踏まえながら、悟りの境地とは一体どんな境地なのか、についてをお話して行こうと思います。

「悟りの境地」の意味とは

悟りの境地とは、この地球含めた宇宙という分離世界が幻想であるという事に確信を持って気がつき、個人としての「私」は存在せずに全ては1つであると悟る境地のことを指します。

そして、その結果、時間や生死といったこの世界や肉体にまつわる全ての概念から完全に解放された真に自由な境地です。

また、悟りは以下のような表現で表されることもあります。

  • 真我の実現
  • 解脱
  • 神への帰還
  • ワンネス
  • アセンション
  • 目覚め
  • 真の「私」に気づくこと。

悟りはよく、”思考では絶対に行き着けない境地”なんて風にも言い表されます。

というのも、思考する自分そのものがいないと悟り、全てが「私」であり、分離はないと気づく境地だからです。

だからこそ、歴代の”悟りを実現した人”はよく、その境地を弟子たちに直感的に理解させるために

「読んでいるものは読まれることができるのか?」

「気づいているものは気づかれることができるのか?」

といったような、思考では絶対に答えが導き出せないような問いかけを、あえて行ってきました。

たとえどんなに悟りをうまく言葉で説明したとしても、結局、思考では絶対にたどり着けないからこそ、多くの探求者は”悟りを実現した人”へ教えをこい、必死にもがきながら悟りを追い求めます。

「悟りってどんな境地だろう。」

「悟りを知りたい!悟りの境地に行きつきたい!」

そんな思考さえも手放し、その”思考をする人そのものがいない”と確信を持って悟る究極の境地なのです。

よって、悟りを見出すには完全なる知識の放棄、明け渡しが必要になってきます。

思考で行う「哲学」を超えた究極の教えが悟りの叡智にはあるのです。

悟りの境地に至る人”は誰もいない。


「悟りたい!私はこのために生まれてきた!」
そんな直感的確信が起こって以降、猛烈な探求が始まり、そこから何年もたった今、私が思うこと。

それは、悟りの境地に行き着く人など誰もいないということです。

というのも、悟りは個人が行き着けるものではなく、その個人が消えた時に自然に見出される境地だからです。

それは「悟り」という境地さえも、そしてそのほかの知識も個人もアイデンティティも全てが概念だと気がつくことなんです。

概念を全て取り払った時に最後に残るもの。これが「真の悟り」です。

だからこそ、「悟り」もまた概念化してはなりません。

悟りは一切の概念のない境地なのです。

ですから究極的には、「悟りの境地」というのもまた、概念に過ぎないと言えるでしょう。

この全ては概念であるということに関してインドの”悟った人”ラメッシがとても的確に表現していました。


存在の存在の欠如

不在の存在の欠如

これが絶対的な真理である。

ーラメッシ・バルセカール(ニサルガダッタ・マハラジが指し示したものより引用)

「いや、意味がわからん。」ってなった方、安心してください。

私も初めは全然、意味がわかりませんでした。

ただ、その言葉を何度も何度もじっくり自分の中に落とし込んでいくと

・自我としての「私」の存在と不在といったコントラストさえない境地。

・存在そのものがない、完全なるワンネス

を表しているということがわかってきます。

つまりは自我個人としての誰もいないし、それに気づくものもまた、誰一人、いないということです。

ただ、そうすると

「そんなの虚しいじゃないか。」

そう思う方もいるかもしれません。

ですが、悟りは決して虚しい境地ではありません。

というのも、虚しさの先に、”絶対なる実在”(本当の”私”)が見出されるからです。

それこそが”完全なるワンネス”であり、純粋な存在の存在の欠如と不在の存在の欠如であり、本来私たちはみな、真理そのものなのです。

悟りを開くには…思考・知識を手放す勇気を。

哲学はとても難しく思考を動かし理論をこねくり回しますが、真理はとてもシンプルです。

というのも、この世界の真理は

  • 全ては1つ。
  • 私たちは無条件の愛そのものである。

これだけだからです。

本当にシンプルですよね。

ただ、最もシンプルであると同時に最も深淵な教えであり、あらゆる宇宙の複雑性を超えた究極的な真理なのです。

そして、このあらゆるたわごとを抜いたシンプルさこそ、日々活発に動き続ける私たちの思考にとっては、とても難しかったりします。

現代人の多くは思考をすることをやめることができません。

インドの目覚めた人、ニサルガダッタ・マハラジはそんな思考が活発すぎて真理を見失っている人たちのことを”知的な馬鹿”と表します。

ニサルガダッタマハラジ
ニサルガダッタ・マハラジとは?タバコ売りの聖者の教えと名言 こんにちは。リリです。 インドでタバコを売る商人として生活する傍ら、世界中から教えをこいにくる人々に悟りを説いていた聖者、...

なかなか辛辣ですね。笑

でも確かに、よくよく考えてみると、思考が活発過ぎた結果、その思考に翻弄されて、1人で勝手に苦しくなってしまう…というのは、非常に滑稽なことです。

…ただ、そんな状況に陥ってしまっている人は案外、多いですよね。

以前の私もまさにその1人でした。

思考を手放すのは個人としての自分、つまり自我からしたら脅威です。

というのも、私たちは今まであまりにも思考を頼って生きてきており、その思考を手放すとまるで”無知な迷子の子羊”になったような気分になるからです。

恐怖さえ、感じることでしょう。

ですが、繰り返しにはなりますが、悟りは思考を手放した先に見出されるものです。

悟りの境地に達する”人”はどこにもいない。そんなものは幻想だったと気づくことが悟りです。

悟りというのも概念でしかないと絶対的確信を持って気づくことが悟りなのです。

まとめ

今回の内容をまとめます。

悟りの境地とは…分離したものはいない、分離したものが存在するように見えるこの宇宙世界は全て幻想であり、その幻想から覚めて、全てが1つである、そしてそれは無条件の愛であると見出す境地である。

  • 悟りは哲学や思考を超えた究極の境地。
  • 悟りとは一切の概念を取り払った境地。
  • 悟りとは虚しいものではなく絶対的な実在そのものとなる境地。
  • 思考は複雑に考えたがるが真理(悟り)はとてもシンプル。

以上が悟りの境地に関する説明となります。

いかがだったでしょうか?

今回の内容が少しでも参考になれば幸いです^^

最後に…

悟りの境地、という表現をすると、その境地にたどり着かないといけないように感じることがあります。

ですが、悟りの境地にはたどり着くことは、決してできません。

というのも、たどり着く個人・自我が消えた時に見出される境地こそが悟りの境地だからです。

「私は(自分の個人名)ではなく、全てだった。」

そう確信を持って気づけた時、その人は悟りを見出します。

ちなみに、私も悟りの一瞥を体験した時に、まさにリリという個人が抜け落ちていく感覚を体験しましたので興味がある方は是非読んでみてください^^

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悟りの境地という真理は、永久不変です。

この先、変えられることも変わることも一切ないでしょう。

あなたの人生にもそんな悟りの光が見出されますように。

愛を込めて。

リリ

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