こんにちは。リリです。
この世界にはあらゆるスピリチュアルな教えがありますが、どんなスピリチュアルな教えでも、突き詰めて深掘りしていくと、多くの場合、ノンデュアリティ(非二元)という教えに行き着きます。
というのも、引き寄せの法則も、占星術も、ワクワクの法則も、結局最後に行き着くのは、このノンデュアリティだと、こっそり教えているのです。
じゃあ、そんな全てのスピリチュアルのゴールとも言えるノンデュアリティですが、中にはノンデュアリティは危険である。というような意見もあります。
よって、今回はノンデュリティは危険な教えなのか?その真相について、覚醒を体験したセラピストの私が、詳しく説明していこうと思います。
それでは、早速いきましょう。
ノンデュアリティ(非二元)は危険?その2つの理由
ノンデュアリティが危険だと思われる理由は大まかに分けると2つ、考えられます。
以下の2つです。
- 自我・エゴにとっては脅威な教えだから
- 「悪」が肯定されているように誤解されることがあるから
それぞれ、掘り下げて説明していきますね。
①自我・エゴにとって脅威的な教えだから
ノンデュアリティが危険だとされる理由の1つとして、自我・エゴにとって、驚異的な教えであるから、という理由が挙げられます。
多くの人々は、個人の分離した自分が実在していると思っています。
そんな常識を一気に覆すのが、ノンデュアリティの教えです。
というのも、「個人としての”私”はいない。あるのは”一なる無条件の愛”のみ。」ということが大前提なのがノンデュアリティであり、これこそが真理である。と伝えるのです。
一見、訳のわからない主張に思えるかもしれませんが、実際、あらゆる宗教でも同じことを言っていることがわかります。
キリスト教:愛さないものは神を知らない。神は愛である。
ヒンドュー教:愛を通して人は最もよく神を崇拝できる。
儒教:全ての人を愛することは最高の徳である。
仏教:人をして全世界への愛の心を育め。
道教:慈愛ある人は、攻略され難い。天が慈愛を持ってこれを守るからである。
つまりは、そんな真理を、宗教を通さずに明確に伝えたのが「ノンデュアリティ」なんです。
ですが、これは自我・エゴにとっては、脅威的な教えです。
というのも、自我・エゴは実在しない。というのは、自我・エゴにとっては一番知られたくない真実だから。
それもそのはず。エゴは「思考」であり、エゴは人々に、思考が自分自身と思わせているので、その思考が本当の自分ではなく、愛が本当の自分である、と気づかれてしまっては、自分(エゴ)がその人の主導権を握ることができなくなります。
よって、主導権を愛に渡したくないエゴは必死になって、「思考が自分自身」だと思わせようとします。
個人が消えて愛が目覚める境地がノンデュアリティです。
個人感が強い…つまり自我そのものにとってそんなノンデュアリティの教えは、非常に大きな脅威になり、その結果、「危険」と捉えてしまうこともあるようです。
ですが、思考に主導権を握らせている限り、その先にあるのは苦しみ・依存・悲しみ・恐れです。
アメリカで行われたある心理学の研究によると、人間は日々、1日に6万回の思考をおこなっているそうです。
そして、驚くことにその8割がネガティブな思考なんです。
それもそのはず、エゴ=思考は恐れ・不安と言ったネガティブ要素の根本であり、深い狂気を秘めていますのでネガティブが多くて当たり前なんです。
また、エゴ=思考は愛を理解することはできても実際に感じて、知ることはできません。
愛を実際に感じることができるのは、”ハート”です。
そして、そんなハートからくる教えこそが、ノンデュアリティであり、思考はその教えによって自分の居場所がなくなるのを恐れ、その結果、ノンデュアリティを危険とみなす、というわけです。
②悪を肯定しているように誤解される
ノンデュアリティが危険だと見なされる2つ目の理由。
それは、ノンデュアリティの教えが時に、悪・闇を肯定する教えだという風に誤解されるから、です。
ノンデュアリティの教えの軸にあるのが「(世界に分離はないので)全てをあるがままに受け入れ許す」という教えです。
ノンデュアリティを危険だとみなす多くの人が、そんな「全てをあるがままに受け入れ許す」ということに対して、「それならば悪ははびこる一方で未熟な人を野放しにするのか!悪を肯定するのか!」とそんな怒りを抱えているように思います。
実例として、2017年、アメリカ合衆国で「アメイジングジャーニー」というノンデュアリティ的な心理描写に描いた映画が公開され論争を巻き起こしました。
話題は一気に広まり、全米2888館で封切り。
あらすじは自分の娘を殺害された父親が、神々との交流を通して、犯人に対して無条件の赦しの境地に達するという内容です。
本作は「宗教映画」と呼ばれ、数々の評論家から「聖書から逸脱している」と批評されました。
「罪人を許すなんて意味がわからない!」そんな風に思ったり、愛する人が傷つけられて怒るのは当然の反応なので、色々な批評があってもしょうがないと思います。
だからこそ、ノンデュアリティ・危険という見解をもつ人がいることもまた、しょうがありません。
ですが、この世界本質のもっと深い部分までいくと、「アメイジングジャーニー」のようにノンデュアリティの考え方である、「あるがままに許し受け入れる」ということが非常に大切になってくるのです。
あるがままを受け入れる事が大切
仮に、自分含めた誰かが、何か”悪いこと”をしたとしましょう。
「あるがままに受け入れる」というのは、そんな悪いことを、自分の気持ちを誤魔化してあるがままに受け入れ、許すということではありません。
つまり、犯罪を起こした人を無罪にしろという話ではないのです。
そうではなく、「あるがままを受け入れる」というのは、人間界の法律に従った上で、自己犠牲感や誤魔化しなく、出来事をあるがままに許す。ということです。
あるがままを受け入れた時、人は初めて、恨みや怒りといった感情から自由になれます。
もちろん、その過程では、酷いことをしてきた誰かを許せない、そんな自分自身をあるがままに受け入れ許すことが起こるかもしれませんし、罪の意識を感じて苦しい自分をあるがままに受け入れ許すことも起こるかもしれません。
それもまた、”あるがまま”なのです。
そして、誰かを傷つける人というのは、同じように自分自身も傷ついていたり、本当の条件無しの愛を知らずに心の奥底では非常に深い恐れや苦しみを抱いています。
そんな人たちが自分の起こした行為と向き合い責任をとるのは、確かに大切なことですが、ただそんな人たちを恨んでひどい扱いをしたり罵ったりしても、更生はしません。
というのも、その人たちは罰を与えられたところで、愛は知らないままであり、傷や恐れは癒えていないからです。
よって、愛を知ってもらうことこそが、世界の平和の第一歩であり、愛の連鎖を起こしていくためには、結局、愛が全てなのです。
ノンデュアリティな愛こそが世界を救う
結論をお伝えすると、ノンデュアリティな無条件の愛こそが世界を救います。
これは実際に、世界の今までの歴史を見たら一目瞭然です。
犯罪者が刑務所に入り、刑に服したところで、その人の環境や状況や心が苦しいままなら、再犯率は非常に高いのです。
ですが、そんな苦しみの連鎖に一石を投じた国があります。
北欧の国、デンマークです。
デンマークの刑務所では、犯罪を犯した人を責めて酷い環境に閉じ込めるのではなく、敬意を持って接し、愛による心の教育を行いました。
この取り組みにも賛否両論はあったようですが、そのデンマークの刑務所は、ホテルのように快適な刑務所であるにも関わらず、再犯率は世界最低になりました。
この事からわかるように、結局人々は皆、犯罪を犯したくて、犯しているわけではありません。
本来、全ての人が愛に癒されて、真の幸福を感じながら、笑っていたいのです。
だからこそ、負の連鎖を、愛に錬金させるためにも、ジャッジを手放して、あるがままを受け入れ許す、ということは悪を愛に連勤させる素晴らしい唯一の方法なのです。
つまり、ノンデュアリティな愛の教えは、危険どころか、最も安全で美しい、人類を救う教えだと言えるのです。
終わりに
以上、今回はノンデュアリティは危険なのか?その真相について、お話させていただきました。
いかがだったでしょうか?
今回の内容をまとめると以下のようになります。
- ノンデュアリティは危険な教えではない。むしろ愛そのもの(最も安全な教えと言える)
- ノンデュアリティが危険とされるのには2つの理由がある
→①エゴ・自我にとっては脅威であるため
②悪・闇が肯定されると勘違いされるため - ノンデュアリティは思考からくる教えではなくハートからくる教えである
非常に深い教えであるために、よく誤解を招く教えでもあります。
ですが、もしノンデュアリティ(悟り)という教えにちゃんと真剣に向き合って、理解するならば、これ以上に深い愛の教えはないと、そう気付くでしょう。
言い換えるならば、イエス・キリストも、ブッダも、ラマナ・マハルシも、本来、ノンデュアリティ(悟り)を説いた人物です。
ただ、宗教として概念化され、純粋性が歪められ、エゴがくっついた結果、愛が条件づけられた教えにもなったり、戦争の発端になったりもしてきました。
ですが、宗教家の中にも、この無条件の愛の重要性に気づく人は大勢います^^
今回の内容もまた、あらゆる誤解が解けていくきっかけになればと思い執筆しました。
何か気づきのきっかけとなったり、参考になれば幸いです^^
それでは今日はこの辺で。
愛を込めて。
リリ