こんにちは。リリです。
スピリチュアルな学びを真剣に深めていくと、いずれ「非二元(=ノンデュアリティ)」という言葉にたどり着きます。
ただ、非二元という言葉は一般的にはあまり馴染みのない言葉ですよね。
馴染みのない言葉であるがゆえに、スピリチュアルの世界では、非二元という言葉がいまいちよく理解できなくて、モヤモヤしている人も多い印象です。そして、非二元を誤解して解釈している人もまた、少なくありません。
よって今回は「非二元とは何なのか。」ということに関して非二元的セラピストである私が説明しようと思います。
非二元を知ると、世界を見る目が180度、変わります。自己の本質が愛である事を理解し、そして人生は新鮮さを取り戻し、畏敬の念すら湧いてくるかもしれません。
非二元って何?
非二元とは、その言葉の通り、「非」二元であり、二元ではないものを指します。
二元というのは、以下のように対局のコントラストのことを指します。
光と闇
白色と黒色
陰と陽
プラスとマイナス
天と地
明と暗
ポジティブとネガティブ
自分と他者 etc…
地球や宇宙は二元の世界です。
光があれば闇もあり、明るい人がいれば暗い人もいる。
あらゆる比較対象によって、私たちは、あらゆる物を認識しています。
白色が黒色や他の色があるからこそ、認識できるように、この世界が光だけであれば闇を認識することはできません。
世界はそのようにできています。
だからこそ、この地球上で不自然に闇の部分を無視して光の部分だけを見ることに偏ることもできなければ、ネガティブな側面を無視して、ポジティブに偏ることもできません。
それは自然の摂理に背いた不自然な行為だからです。
そんな二元の逆として「非二元」は存在します。
「非」二元という言葉の通り、二元ではないことを指します。
白があれば黒がある、光があれば闇があるといったような比較対象が一切存在せず、全ては1つであり、私と分離しているものなど1つもない…と知る境地です。
もっと具体的に説明します。
非二元とは一切の先入観や固定概念を取り払った境地
私たちは日頃、あらゆるものを自分自身の先入観や固定概念によってネーム付けをしながら見ています。
例えば、石ころ、椅子、本、スマートフォン、鳥…そういった世界の全てが、自分の心によってネーム付けが行われています。
そして「あれは石ころだ。」と、そんな風にネーム付けがされた途端、まるで催眠術にかかったように、私達はそれが何なのかを知ったと思い込みます。
ですが本来、全てのネーム付けは、私たちの心が先入観や固定概念によって行なっているに過ぎません
実は私たちは、一切の先入観や固定概念によりネーム付けをやめた時、それが本質的に何であるのか、全くわからないのです。
- 光と闇
- 白色と黒色
- 陰と陽
- プラスとマイナス
- 天と地
- 明と暗
- ポジティブとネガティブ
- 自分と他者 etc…
先ほど例であげた二元的なこれらも、結局は全て、自分の心の先入観や固定概念によるネーム付けに過ぎません。私たちが謎のネームを付けただけです。
じゃあ、そんな全ての先入観や固定概念を取り払い、世界をあるがままに見たらどうなるでしょうか?
「光も闇も自分の先入観、固定概念によるネーム付けに過ぎなかった。
白色と黒色も自分の先入観、固定概念によるネーム付けに過ぎなかった。
プラスとマイナスも自分の先入観、固定概念によるネーム付けに過ぎなかった。
自分がいて他者がいて、というのも自分の先入観、固定概念によるネーム付けに過ぎなかった。」
と、そう気付くのではないでしょうか?
その結果、私たちはあるがままに世界を見るようになり、「何もわからない」という神聖な疑問と共に、あらゆる比較対象物が幻想であったと気付くのです。
そんな非二元の境地においては、先ほどの例で出した、「自分がいて他者がいて、というのも自分の先入観、固定概念によるネーム付けに過ぎなかった。」という風に、自分(自我・アイデンティティとしての自分)という最も強固な固定概念さえも消えていきます。
個人としての自分さえいないのであれば、”個人としての自分”と”自分以外の何か(人・物・事)”という固定概念も消え去り、世界に対する分離感は完全に終わりを告げます。
そんな全ての比較や分離が終わった境地こそ、非二元なのです。
そうして、自分の自我が消えていった時に見出されるのは、利己主義な部分が抜け落ちた、純粋な慈悲の愛です。
全ての先入観や固定概念を取り払った非二元は、そんな素晴らしさを秘めています。
偉大な芸術家が感じ取った世界の本質
実際に、芸術家で有名なゴッホは、花瓶に入れられ飾られていたひまわりに対して、「あれは、ただのひまわりだ。」とは見ませんでした。彼はひまわりというネーム付けをせずにその本質をあるがままに見て、見て、見抜きました。
ゴッホの格言に以下の3つのような格言があります。
”愛は永久不滅なもの。
姿かたちを変えることはあるが、本質は決して変わらない。”
”美しい景色を探すな。
景色の中に美しいものを見つけるんだ。””私は、自分の作品に心と魂を込める。
ーヴィンセント・V・ゴッホ
そして制作過程では我を失う。”
これらの格言からもわかるように、ゴッホは絵を書く際、対象物の本質を見抜く為に個人の自分(自我)という固定概念を超えて、まさに、”無我夢中”になって描きました。
そして、と同時に、この世界の永久不滅の真理は愛であると、見抜いていました。
だからこそ、彼の絵は、彼の人柄含め、今もなお、世界中の多くの人に愛され、語り継がれているのではないでしょうか。
ひまわり自体はどこにでも咲いているひまわりだったかもしれません。
ですが、その絵に50億円以上の値段がついたのは、彼がそのひまわりの本質を無我の非二元の境地で、正確に感じ取り、そのままに描いたからだと、私は思います。
彼はまさに、”非二元の視点”で絵を描いていたと言えるでしょう。
今回例を出したゴッホのように、非二元な境地に至った時、”その人”は自分の本質が”個人=自我”ではないことを悟り、真の調和や喜びや愛、創造性を見出す事となるのです。
それは、お金では到底測れないほどの価値をもっています。
まとめ
今回の内容をまとめます。
- この宇宙世界は二元世界
- 非二元は二元ではない境地
- 全ての固定概念や先入観を取り払った先に、非二元の視点は見出される
- 非二元の境地で世界と個人の私は一つである
- 自己の本質は慈愛(無条件の愛)である
ただ、スピリチュアルの教えの多くでは、この非二元が悟りと表されることが多いのですが、実は非二元のもう一歩先があります。
そちらに関しては以下の記事にて詳しくお話ししていますので興味のある方はぜひ読んで見てください。
それでは最後まで読んでくださりありがとうございました。
愛を込めて。
リリ