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リリ
目覚めの案内人
純粋な非二元(悟り)の観点から心のセラピストとして活動しているリリです。
幼い頃から、この世界への諸行無常感を抱え、極度に繊細で敏感(HSP)な自分に生き辛さを感じいました。20代の時に訪れた絶望を機に悟りの探求を始め、一瞥・覚醒を数度体験。
セッションでは表面的な改善でその時だけの状況を変えていくのではなく、より本質的かつ根本的な改善方法に導くことを心がけています。
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どうしても覚醒したい、一瞥体験をしたい方へ。真実を話します

こんにちは。

リリです。

たまに、セッションを受けてくださる方やブログ読者の方々から、このようなご質問をいただくことがあります。

「覚醒、一瞥を体験したら全てが解決できますか?」

「覚醒、一瞥を体験したら、何もかもから解放されて楽になりますか?」

「覚醒、一瞥を体験したら、スピリチュアル的にすごい人、優れた人になれますか?」

覚醒・一瞥体験は人によっては至高の体験であり、本当に素晴らしいもの、として表現される方も多いので、そんな風に思ってしまうのもしょうがないと思います。

他にも、覚醒体験をすごい体験のようにお話しする人も増えているようで、その結果、覚醒したら全てがうまくいく…とそんな風に勘違いしてしまっている人も多く存在するようです。

今回はそんな誤解を解くために、文章にしました。

もちろん、覚醒、一瞥体験が素晴らしい体験であることに違いはありません。

ただ、覚醒・一瞥の体験で全ての問題が解決するか?
何もかもから解放されるか?
スピリチュアル的に優れた人になれるのか?

といえば、答えはノーです。

その理由をこれから詳しくお話していきますね。

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目次

覚醒とは体験に過ぎない。

多くの人が覚醒・一瞥体験を熱望しますが、実際にその体験をしてみると、そこは完全なる悟りへのスタート地点でしかない、ということに気がつきます。

というのも、体験はやがては過ぎ去るものであり、体験は永続的に見出される悟りとはまた別のものだからです。

逆にワンネス・真理体験を一瞥したことで、その体験にしがみついてしまい、日々の心のあり方がないがしろになり、状況が悪化するという方も実は少なくありません。

他にも、瞑想などで感じられる至福体験により、その体験の中毒になってしまう、というパターンもあります。

私の元にセラピーを受けてくださる方の中にも、そのような状況で苦しんでいる方は少なくありません。

結局、どれだけ、一瞥・覚醒体験をしたとしても、体験中毒になってしまっては意味がありません。

それが明確に理解できていないと、その体験に反応しすぎてしまい、

「自分は悟りを開いた。ブッダになった。キリストになった。」

などと皆に言って回る羽目にまで、なるかもしれません。

覚醒・一瞥の体験ですらエゴの罠になり得る。

例えば、実際に一瞥を体験して、自我の消失がどんなものか体感を持って知ったとしましょう。

その体験をした時は本当に驚愕の体験で、

「とうとう自分はやったんだ!とうとう自分は真理を見出したのだ!」

とそんな風に感じる事かもしれません。

ですが、この状態は、実は”霊的エゴ”というエゴの罠に引っかかりやすい状態です。

※霊的エゴとは…自分は悟りを開いた、悟りが真理だと知った、もしくは超能力的なものを手にしたことで、自分は人よりも優れた存在であると信じ、その結果、傲慢になってしまうこと。

エゴは悟りの学びも利用してくるので、要注意なんですね。

これはイギリスの人気覚者であり禅の僧侶であるアジャシャンティも、同じような内容を注意勧告として伝えていました。

アジャシャンティは、深い悟りに至った覚者(禅の世界ではその事を”大吾”と表す)として、有名ですが、彼もまた、20代の時、初めて一瞥を体験した時、霊的エゴを体験しました。

彼は一瞥を体験後、「自分は今ここにいる他の修行者と違って覚醒体験を体験した優れた存在だ」という霊的エゴが誘発する感情が一時期、どんなに気をつけても拭えなかったそうです。

最後には、その優越感を押し込めようとすることを一切放棄することによって…つまりはあるがままの自分を完全に受け入れることによって、その優越感エゴから抜け出すことができたそうです。

このように、多くの人が覚醒や一瞥を体験後、この優越感エゴのプロセスを通ります。

エゴはとても狡猾なので、覚醒や一瞥の体験をも、エゴを育む材料にしてしまうのです。

よって、日々、そういった至高体験にしがみつかずにあるがままの全てを受け入れることを日々、実践していた方が、本質的な目覚め、悟りへと繋がっていきます。

あらゆる恍惚体験への執着をへて、試行錯誤しつつ、物事を理解するようになり、やがてはその覚醒体験を再び獲得しようと躍起になる自体、無意味だと悟るのです。

本当の目覚めは体験のように過ぎ去ることがない

真理(完全なるワンネス)とは、不変なものであり、時空を超えたものです。

全生命の生死のサイクルのように、やがては過ぎ去るものではありません。

よって、どんな至高の体験、驚愕の体験であっても、その体験が起こってはやがて過ぎ去ったものであるならば、それは完全なる真理の体現とは違うものものなのです。

完全なる真理の体現とは、つまりは、完全なる探求の終焉を意味しています。

努力せずとも真理を体現している状態であり、それはかつての偉大な聖者、イエス・キリストやラマナ・マハルシのように、いつでも真理そのものとして存在しているような、そんな境地なのです。

覚醒・一瞥を体験する事で得られるもの

じゃあ、「結局、覚醒・一瞥体験を体験するのは一切無意味なのか?」といえば、もちろん、全くの無意味、というわけではありません。

人々の中には、その体験が永遠のもの…つまり完全なる悟りでなければ、それは本当の体験ではないという人もいます。

ですが、瞬間的に真理である”非二元のスペース”を狭間見た人も、永続的な真理を得た人も、実は同じものを見て、経験しています。

結局、瞬間的な真理を狭間見る人たち…つまりは一瞥・覚醒体験をした人は、言い換えるならば、”神へのキス的体験”をしたと言えるでしょう。

神様にキスをするように、真理に一瞬ふれ、真理を確かに狭間見たのです。

この体験があると、真理がどんなものなのか、体感的に理解する事となり、この世界の真理を想像するだけでなく、実感として感じることができますので、この感覚を忘れることはこの先、ないでしょう。

一度、一瞥・覚醒を体験したなら、分離感が元に戻ることはあっても、そこからまた完全に無知になることは不可能なのです。

よって、目覚めが定着せず、元に戻った、とそんな風に感じる時でも、その人の目覚めのプロセスはその人の意識に応じて、確実に進行していく事となります。

まとめ

というわけで、今回は一瞥・覚醒体験に関しての誤解を解くべく、実際に覚醒・一瞥体験を数回体験してきた私リリが、見解をお話させていただきました。

今回の内容をまとめます。

要点まとめ
  • 一瞥・覚醒体験をしたからといって永続的な全てからの解放が起こるわけではない
  • 体験中毒にならないためには日々のあり方が全て
  • 一瞥・覚醒体験後の霊的エゴの罠に注意
  • 一瞥・覚醒体験がもたらすのは神様へのキス的理解
  • 一瞥・覚醒を体験した人が完全なる無知へと戻ることは不可能

いかがだったでしょうか?

一瞥・覚醒がとてつもなく素晴らしいものだと捉えていた場合、もしかしたら拍子抜けするような内容だったかもしれません。

ですが、真理とは、本来とてもシンプルなものです。

分離のない真理(ワンネス)を見出す事によってエゴによる重荷(あらゆる責任や罪の感覚)が完全に取り除かれ、それによって私たちはエゴのあらゆる思考や感情に巻き込まれなくなっていき、その結果、永続なる幸福を見出す、という事になります。

というわけで、今回の内容が、あなたの意識の目覚めの手助けとなれば幸いです。

それでは今日はこの辺で。

愛を込めて。

リリ

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